昭和49年09月12日 朝の御理解
御理解 第68節
「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心経やお祓いをあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。柏手も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり節をつけたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め。」
神参りをするに雨が降るから風が吹くから、そこでくじける様な事であってはならないと。しかもその辛抱こそが身に徳を受ける修行と仰せられるのですから。むしろそういう時を大事にしなければなりません。だから徳を受けると言う様な、本当に信心を頂けれると言う様な所を、お粗末にしておっては、いつまで経っても良い信心もまたは、身に徳を受けると言う事も出来ない。
言うなら自分の都合のよかときだけの信心であったり、お参りであったりでは、勿論だから、まず絶対お徳は受けられないと言う事が分かります。お徳を受けると言う事は、これは天気だけの事ではありません。自分の身の上にもはぁこれが今、自分の家の風でもあろうか、雨でもあろうかという様な時があります。けれどもそういう時を愈々大事にして行け。これは信心に限らんのですけれども、信心の場合は一つの事が成就すると言った様な、一つの願いが叶うと言った様な事ではなくてね。
その事を通して身に徳を受ける修行だと仰っておられる。ここが信心の違う所である。一つの事が、願いが成就するために、一生懸命にお参りもする、雨もなからなけりゃ、風もないと言う様に、一生懸命参る。願い事が成就するというのではなくて、そういう願いごとなら願いごと、難儀なら難儀を通して、その辛抱こそが、身に徳を受ける修行じゃと。だから、場合には、泣く泣くといったような時もありましょう。けれどもそこの所を辛抱していくと言う事が、身に徳を受ける修行じゃと。
私は身に徳を受ける修行をさせてもらう。また身に徳を受けなければ、金光様の信心の値打ちは無いと思う。ただおかげ御利益というだけであったら、私は何々様でも良いと思う。身に徳を受ける修行、ですからここの所をまず第一、信心の稽古をさせて頂くなら、よく腹入りさせて頂いておかなければなりません。例えば大祓いや心経やら、言うならば、お経文を読んだり大祓いを上げたり、まぁ色々唱えごとというのがありますね、信心には。もうお道の信心では。
ただ今天津祝詞とか大祓いとか、天地書付とか言わば、拝詞などを奏上いたします。中々やっぱり上手下手があります、声の良い悪いもあります。けれどもそれに真が無かったら、神に嘘を言うも同然じゃと仰るのですから。だからまぁここで真とは、どう言う様なこと。真で大払いを上げたりすると言う事は、どう言う事かと私は思うけれども。その真の追求を、私はすることは要らんと思うです。問題は自分が一生懸命、大祓いなら大祓いを奏上させて頂いておる。
それがねそのまま、神様と私共の交流とでも申しますか。私はそう言う事だと思うのです。言うなら無心にと言う事だと思うんです。仏教なんかのあの鐘を叩いたり、木魚を叩いたり日蓮宗などは、団扇太鼓を叩い、一生懸命に経文を、一生懸命に一つの太鼓とか、鐘などの一つのリズムが生まれてくるです。私はあれが大変好きです。木魚を叩いてから、拝んでおるなんて本当に素晴らしいです。もう止め道が分からんように有り難くなるのじゃなかろうかと思うです。私木魚を叩いた事はないから、分からんけれど。
だからお道では木魚を叩くわけにも、鐘を叩くわけにもいきませんので、もう本気で一生懸命、ここでは大きな声をするには及ばんと、小さい声で言うても、いや心の中に念じても神様には通ずるのです。その一つの手立てとして、私は御祈念が大事だと思うんです。ですから私は御祈念に間に合うように。ここで若先生が先唱して、五時の御祈念なら五時の御祈念を奉仕いたしますから。
自分も本当に心の底から一生懸命に私は奏上させて貰わなければならない。勿論覚えていない方は、早う一つ覚えてしまわなければいけない。そしてまた自分のお家に帰らせて頂いても朝晩の御祈念を、本当に有り難い先唱が出来て家族中の者がそれに唱和するように、一緒についてくるなら家庭円満にならないはずは絶対無いです。昼どう言う様な事があって、ごちゃごちゃがあっとってもです。さぁ夜の御祈念ばい、さぁ早う御祈念御祈念と言うて、御祈念をさせて頂いて。
お父さんが天津祝詞、大祓いを奏上させて貰う。それに家内子供も皆ついてくる、一生懸命奏上しておる内に、例えば昼にごたごたがもしあっとっても、消えて無くなると思うです。それが神様にかようからなんです。だからそういう一つのねおくりあわせを願わにゃいけませんよ家庭の中では。御祈念はそういう意味において大事です。だからそういう、例えば心の交流というか神様との間に、そういう交流がながれておる時こそ、私は真だと思うのです。
何か自分の言うていることを、神様が一々合点して聞いておって下さる様な気がする。それが私はおかげだと思うです。雑念盲念がもう雲のように湧いてくる。それでもあの大祓いを一生懸命奏上させて頂いておる時には、もう盲念もなからなければ、邪念も無い。ただ神様へ通おうとする一心の真でしかない。だから言うならば心にあった、様々な例えば昼なら昼、色んな争いなら争いをしておったと致しましょうか。問題があったとしましょうか。けれどもその問題が問題でなくなってくる所にです。
おかげを頂く受け物というものが、心の中に出来てくるのです。次に人にものを言う通りに拝めとおっしゃる所が、私は素晴らしい金光教の信心は。人にものを言う通りに拝め。候文で言わにゃならん事もなければね、祝詞言葉で言わなければならないと言う事もない。それこそ筑後弁まる出しで、お願いをして良いのです。しかも人にものを言う通りに拝めと仰る。痛いなら痛い痒いなら痒いと、その事をそれこそ、訴えるようにお縋りするべきだと思うです。
そこの所を教えておられる。かと言うて、一年参っても二年参っても五年、十年信心を続けておってもです、例えばその願いと言う事がです、内容というものが高められないなら、これは可笑しいですね。
信心が高められるということは、私は祈りが高められるということだと思うんです、祈りの内容が。始めの間は、本当に自分のことばっかりじゃった。痛いなら痛い、痒いなら痒いことばっかりじゃった。それがです、その痛いことも、痒いことも、また有り難いことだと分からせて頂くようになったら、そのことに対して、おかげで信心が出来ますというようにです。お礼が言えれるようになって来る。
それだけではない、今ままでは、自分だけのことであったのがです。隣近所のことまでも祈らなければおられない。袖すり合うも多少の縁。それこそ縁に任せてです、お道を説き、信心を説かせて頂いて、現在の合楽示現活動運動に、言わば、活動に参画しておられる皆さんの場合はです。そういう大きな祈り、大きな願いが、段々育っていかなければ嘘です。しかも、それが本当なものに、いよいよなっていくということなのです。いうなら、人の難儀を、人の難儀とは思うてはおられん。
自分のことのような思いで、切実に祈らせてもらう。そこのところも、人にものを言う通りに拝めるようにならなければいけないというのです。例えば、子供が、なるほど三つ、四つの一番可愛いらしい。もうこのまま太らんほうかよかち言う親はありませんでしょうもん、いくら可愛いかったっちゃ。それが、十にもなり、十五にもなったら、少しは親の言うことも聞けれるようになり、親の手伝いもするようになり、というように、成長してかなければ、私は信心をけいこしておる値打ちはないと思う。
それを、例えば御用というような言葉で、お道では表現するのですよね。私は、今朝方から、お夢を頂いた。それが、もうそれこそ、何と言うでしょうか。何十階、四十階も、五十階もあるような、高層建築が、東京あたりでは出来ておると言うことでございますけれども、そういう高いところなんです。それが丁度、建築をする鉄骨ですね、鉄骨がずーっとこぅ出来ておるのです。私は、そういう上でです、それこそ下を見たら、目の回う段じゃなか。それこそ、下に通っておるのは、ちょっと、小さくしか見えない、そういう高いところでです。
私が一生懸命、まぁ建築でしょうかね。そういうことのあっとるとの指導というか、まぁ言うならば、現場監督のようなことをです。まるきり、何と言うですかね、あの飛び職の方達が、高いところを、素手で歩かれるでしょう。もうそういうふうに、私は身軽く、そういう高いところです。鉄骨の上を、あっち行ったリ、こっち行ったリしながら、建築指導とでも申しますかね。監督をして回っておるところを頂きました、お夢の中に。どういう事だろうかと。
言うなら、合楽で願われておること。それはまずは、私共がです、信心の有り難さと同時にです、現実の上においても、まず人間と身代と達者と、教祖様がおっしゃるが。それを私は言葉を変えて、人間が出来るということは、もう争いがないということだと思うのです。人間が出来たら、争いなんか、絶対ありません。身代というのは、貧乏の無い世界だと思うです、身代が出来るということは。人間と身代と、それから達者ということは、病気の無い世界だと思うです。
教祖様は、そこのところを、人間と身代と達者とおっしゃておられる。そういうおかげを、私共が現していく、頂いてく。なるほど、合楽では、段々おかげを頂いて、第一、言うなら、人間が出来てきたとでも申しましょうか、言うなら、御神意のほどが分かってきた。まずその問題とか、争いとかの実体とでも言うか、そういう神様の心が分かってくるようになるから、普通でなら、争わねばならないところが、争わんですむ。いや問題が問題でなくなってきておるということ。
よし例えば、家庭の中に問題があっても、親先生は、どげん言いなさるかと言うことになって、翌る日は、カラッとそれが解決しておる。おかげを頂いて、合楽では、まず貧乏する人が無くなっておるということは、身代が出来て来よることです。それは、なるほど、その日暮らしかも知れないけれども、その日に、ことかく事がないという、おかげを頂いておるなら、まずは貧乏の無い世界です。本当の意味においての身代が、身に付いて来よるのです。
達者。第一、もうおかげで薬箱がなくなりましたという人たちが、合楽では、沢山おるということです。病気をしても薬を飲まんのかというのではなくてです。薬を飲まんですむほどしの達者のおかげ、健康のおかげを頂いておるということなんです。そういう、私は、極楽の世界。私は、今日、頂きました、それこそ地上何十階という様な高いところで、私は建築指導を、一生懸命、飛び職のように、身軽く、あっち飛び回り、こちら飛び回りしておるということはです。地上に、そうした極楽。
言うなら、地上天国建設の働きが、合楽を中心として起こっておるということであると、私は思うて、改めて、有り難いと思うております。現在、合楽で、合楽示現活動というのはです、まずは私共が、その地上天国にあるほどしのおかげ。そんなら、その地上天国、またの言葉で言うと、どういうことかと言うとです。手と足と、口と心が有り難く、動く時こそ、神の喜び。手と足と、口と心が有り難く動く時こそ、神の喜び。
そういう神様のお喜び頂けれるほどしの世界が、信心させて頂いている者の、信心家庭に現れて来たということなんです。あぁあ、今日もまた、こげな仕事をせにゃんじゃなくて、言うなら、その手足が動いておるということだけでも有り難いのだから。もう皆さん、本当にね、私共のように、もう十年も前でしたかね。何年間、私が、この足が全然利きませんでした。御本部参拝をさせてもらうでも、奥城を負うて貰うて、登らねばならんという時代がありました。
ですから、御結界に座りっきりでした。足が立たんのですから。寝ておってから、自分の足をこうやって上げることも出来ん。あれをまぁ医者に言うたら、どういうことを言うでしょうか。やっぱ中風かなんかと言うでしょうね。おかげで私は、もうおかげで、命をかけて、御結界に座り抜くことが、もう座っとら、痛うも痒いも、どうもないとですから。そういう何年間が続きましたからです、なお更、それを思うのですけれども。一切に、手と足が動く、動くということだけでも、大したおかげでです。
しかもその手足が動いてです、銘々の、神様から与えられておるところの御用が出来るとするなら、もうこげな有り難いことは無いです。手と足が、それこそ動く。口と心。口ということは、このように、お話も自由自在に出来るだけではなくて、口ということは、食べ物を頂くということなんですけれども。皆、それは、お魚ならお魚の味、お野菜ならばお野菜の味が、良く頂き分けることが出来るということなんです。
もう愈々難しかと言うごとなるとです、食べ物が砂を噛むように、何を食べても美味しいという味わいがなくなってくるです。それにですこれは魚の味だ、これはお野菜の味だと、食べ分けられるほどしのおかげを頂いておるということは、こんなに有り難いことは無いです。その有り難いということが分からせて頂くということなんです。
最後に、一番難しいのが、手と足と口と心であります。心がなかなか自由自在に言うことを聞いてくれません。ほがらかになろうと思うても、ますます心が滅入っていく。はぁこんくらいなことで腹立てちゃならんと思うけれども、無性に腹が立って、立ってしようがない。自分で自分の心の自由を失ってしまう。ところがです、段々合楽で、信心のけいこをさせて頂いて、おかげを頂いている人は、全てのことを有り難い。
昨日、宮崎の方から来ておるお手紙の中にです、初めて、先日から、あちらから、六時間かかるんですよね。自動車三台で分乗して、おかげの泉でおかげを頂いておる人たちばっかりのグループなんです。その方達の中に、とにかく、有り難い、有り難いで開けた道だから、有り難い、有り難いと言うておれば、もう一切がおかげになるという話を聞いて、もう有り難い、有り難いという会を作って。もう皆が有り難い、有り難い。どんなん事でも有り難い、有り難いと言おうという話合いをしたという手紙が来てます。素晴らしいことですよね。
それは困った野てんなんてん、だから絶対言われんことになったわけです。そぅらおかげばのと有り難いち、こう言わなんごとなってきた訳です。有り難いという心。だから、有り難いという様な心が湧かんでもです、よくよく分からせてもらうと、お礼を申し上げねばならないことに、私共が不平不足を言うておるのですから。嘘にでも、有り難いという有り難さ。言うなら、自分の心というものが、有り難い方へ有り難い方へと、自由自在に、コロコロと有り難い心が表れて来るような心の状態。
こういうふうに心が自由自在に有り難いとか、勿体無いという心が出来て来たときこそが、いよいよ神の喜びだというのです。手と足と口と心が有り難く、動く時こそ神の喜びと、こう言う。そういう世界なのです、地上天国というのは。それにもう一つ、最近は、真善美ということが言われております。真ということは真。真の反対は嘘ですから、嘘の無い生活。嘘の無い世界。今の、政治家の方達は、大嘘付きというふうに言われますね。だから、そういう大嘘も少嘘もなくなっていく世界。まずは自分の心から、自分の家庭の中に、嘘の無い真の世界。
善と言うのは、悪の無い世界。最後の審判ということをキリスト様が言っておられるそうですけれども。それは、善と悪とを区別して、善だけが残るという意味だそうですね。だから、どうでも、悪の無い世界に住まなければいけません。美です、これは天国と言われたり、極楽と言われたところにです。汚いところやら散らかっているところがあるはずはありませんもんね。皆さんのお家の勝手やら、お座敷やらどげなんふうになっているでしょうか。これは、私は、心掛ければ出来ることですから。美の追求をしていかなければなりません。
例えて申しますとね、どんなに素晴らしい花がありましても、ただ花があるだけでは、ただ、ほぉこれは綺麗な花だということですけれども。私は美の追求ということは、その花をです、本当に活けるが如くとでも申しましょうか。もうそれこそ、見とれるようなふうに、それを活けあげれるということだと思うです。言うなら、お花のけいこをなさる方達は、一つの美の追求です、あれはね。
絵とか、彫刻とかというものは、あれは美の追求をして、あいう人の心を打つような美術品が生まれるのです。だから、美でさえあれば良いということじゃないです。追求しなければいけんのです。けいこしなければいけんのです。そこに、いよいよ、美的感覚というものが身に付いて参ります。言うならば、お花のけいこをさせて頂くとです、その一つの花がです、いや花じゃない。それは枯れだ、枯れ葉でもです、素晴らしい花に活け上げれるのです。
綺麗な花ばっかりで、世の中がありゃ良いけれどもです。それこそ、枯れ葉枯れ枝というようなこともあるのですから、それを活け上げれる力を頂くことです。美の追求をするということは、そういうことだと思うです。そこに初めて、真善美の世界、言うなら、極楽の世界。地上天国の世界。地上何十階とも分からん高いところにです、今合楽を中心にして、私の監督のもとにです。
そういう地上天国が建設途上にあるという。そういう尊い大変な時代に合楽に御神縁を頂いたということは、まぁ何と言う有り難いことであるかということを、まずみなさんに気づいて頂きたいと思うです。そして皆さんが今神様が打ち立てておられるところの、地上遥か上の世界に住まわせて頂くような、お徳を受けて頂きたいと思うです。
それには、今日の御理解の中にあります、神参りをするに雨が降るから、風が吹くからえらいと思うてはならん。そういうときこそ、そういう次元の違った世界に住むことの出来れるおかげの頂けれる、絶好のチャンスなのですから。それを大切にそれを大事に頂いていかなければならないということも分かるわけですね。どうぞ皆さんそういう意味でです。本当に信心のある者と無い者は、親のある子と無い子ほどの違いということは、ただお願いをして、おかげを頂くところだけが違うというのじゃありません。
親があるからこそです、間違うたら、叩きもする。親があるからこそ、そんなこっじゃいけんと、厳しく教える場合もあるように、親があるからこそなのですから。神様がこのような思いをして、改まってくれよ、磨いてくれよと言うておられる。そこを、親のある子と、無い子の違いを感じさせて頂いて、そして事実、親のある子と、無い子とは、このように違うのだろうか、信心のある者と無い者は、こんなに違うだろうかという、次元の違った世界に住まわせて頂くおかげを頂きたいものですね。
どうぞ。